時事問題やスピリチュアル業界に関するひとりごと 

10年以上スピリチュアルや自己啓発系 心理学系セミナーやコースを受け、気づいたこと。

そりゃ、世のお母さんたち苦しいわ

がみがみ言ってはだめ、とか、しかっちゃダメ、とか そんなタイトルの本を目にします。 


まじめで、一生懸命、親の言うことをよくきいてきた、いい子であった、親ほど、このイデオロギーに染まります。


抽象化してみれば、こういう人は、ルールに合わせて生きてきた、のです。


ルールが変わった(しかるよりほめる)ので、今度はその新しいルールに合わせようと、
一生懸命になるのです。


各いう私もその一人で、
あ、また怒っちゃった → だめな母親 → 本を読んで反省。今度こそ!→
あ、どなっちゃった → ダメな私、 この無限ループでした。


心屋さんが受けるのは、そうした疲弊した母親たちを、いいんだよ


とブランケットでくるんでくれるからですね。 彼のブログが慰めだったこともあります。


おやとして、なんとか教育しなきゃ、導かなきゃ、っていうのは、ほとんど無駄でした。


子供をしっかり観察すること  子供を信じること=自分を信じること 


信はちからなり by スクールウォーズ滝沢先生恩師のことば


相手を信じ 待ち、 許してやる  これが 愛というものだ 
(ラグビーチームメートの度重なるプレーミスにいらつく滝沢氏にむけていった、
恩師のことば)


中学の時に見ていたドラマですが、この言葉はずーと覚えていた。


信じることが確信→真実へとつながる (魔法の学校より)





これしかない

ほめられて動くほど単細胞じゃないって

昨今、ほめて伸ばす、というのがはやりだが、結構トリッキーである。


ほめるか、しかるか、の2者択一で考えるほど危険な物はない。


つねに、状況と文脈、個体差、両者の関係性、などなど。


まあ、それを前提にして、ほめると、なにがいいのか、を話すのは楽しい。


両極がぶつかりあって、新しい波(見方)ができる、それ、すなわち進化なり。


だから、ディベートの本質を知らない人が、がちの口論になってしまうのは残念だ。


特に、感情的になってしまっては、目も当てられぬ。いや耳か?


感情を発散してすっきりして、本人たちは楽しんでいるのかな。


多くの日本人の場合、相手の意をくんで できるだけ口論をさけるのが知恵だったが、


それでは、国際競争に負けるとばかり、自分の意見を言う、ということに重きを


置かれるようになった。


しかし、いまでも、学校では同じように同じことを考えることを求められている、いや自


然とそうなってしまうのだ。


小学校で、だれかが意見を言うと、おなでーす、とかみなが、手をあげるのだが、


これ同調圧力がつよいもんだから、なかなか反論しづらいよね。


でも、さいきんはそういう子もふえてきてるのかな。


流れはおもしろい。


また、タイトルとかけはなれちゃった。

レゴの街

処分を考えて、レゴを整理していると、なんだかレゴがやりたくなった。


そういえば、子供のころブロック(当時はレゴは近所になかった)で、家を作って


遊んでいたな。。。


ここに、こんな形のがあったらいいのに、なんて心配はどこふくかぜ、


いまやレゴ(ブロック)は、多様化が半端なく、ありとあらゆるものが作れる勢いだ。


レゴで説明書をみながら、家をつくったりしていると、なんとなく、規則性みたいなのが


見えてくる。 これとこれを重ねると、こうなる、のような。


そんな毎日を過ごしていると、外へでて、車にのってると、


”あの街頭は、あれとあれとあれを組み合わせればできるな”
”あの消火栓は、あれかな”


と、変な視点で街をみたりして、


認識論の正しさを(自分が大事だと思うものを、フィルターで(見たいように)みる、もので世界はできている)
を実感するのでした。