ほめられて動くほど単細胞じゃないって
昨今、ほめて伸ばす、というのがはやりだが、結構トリッキーである。
ほめるか、しかるか、の2者択一で考えるほど危険な物はない。
つねに、状況と文脈、個体差、両者の関係性、などなど。
まあ、それを前提にして、ほめると、なにがいいのか、を話すのは楽しい。
両極がぶつかりあって、新しい波(見方)ができる、それ、すなわち進化なり。
だから、ディベートの本質を知らない人が、がちの口論になってしまうのは残念だ。
特に、感情的になってしまっては、目も当てられぬ。いや耳か?
感情を発散してすっきりして、本人たちは楽しんでいるのかな。
多くの日本人の場合、相手の意をくんで できるだけ口論をさけるのが知恵だったが、
それでは、国際競争に負けるとばかり、自分の意見を言う、ということに重きを
置かれるようになった。
しかし、いまでも、学校では同じように同じことを考えることを求められている、いや自
然とそうなってしまうのだ。
小学校で、だれかが意見を言うと、おなでーす、とかみなが、手をあげるのだが、
これ同調圧力がつよいもんだから、なかなか反論しづらいよね。
でも、さいきんはそういう子もふえてきてるのかな。
流れはおもしろい。
また、タイトルとかけはなれちゃった。
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