時事問題やスピリチュアル業界に関するひとりごと 

10年以上スピリチュアルや自己啓発系 心理学系セミナーやコースを受け、気づいたこと。

はじまりは意図・決意

わたしが覚醒をしたのは何年前だろう。スピ探求を始めたとて、知識の種類が変わるだけで、相変わらずのパターン言動、プログラミングされた行動様式、思考。


リーディングでもそのことがわかぐらい、しっかりエーテル(気)に情報がのった。
あるチャネラーさんにも、質問していないのに、覚醒することを伝えられた。


そもそも、覚醒することなど人間ごときが(わたし、の一般化)できるわけない、
という思いこみが、スピ探求の中で、ほどけていったのも確かだ。
必要なのは、willingness  commit ment 。
わたしは、単純なところもあるので、へーそうなんだ!と 自分の中にインストールする。これを人は洗脳というかもしらないが、わたしに不利益はない。もともと、人間は洗脳なくいきれない。生まれた時点で、祖先の情報をダウンロードして、これは無意識の延納。家族による洗脳にはこの世を生きるためのルールがある。ほとんどのものは、成長した段階で棚卸のごとく、もう自我をもった自分に不必要なものを、アンインストールしなきゃいけないのに、植え付けられたあれやそれを、なんの疑いもなく常識ととらえ、後生大事にもって、それがまだ機能している(人生がいわゆる”うまく”いっている)ならm
まだしも、機能不全のアプリだったのに、ずーーーーーーっと使っている人がほとんど。
まあ、うまくいっているという人も、実はそれでは生きるしかばねなんだが。)


悟り、や神様、など人間は勝手に定義づけして自らを低めているように思う。
人間は傷つけ合い、生態系を壊すことから、動植物より下だとか。
このような思い込みは一体どこからきてるのだろう。


今飲んでいる水に問題があれば、それは、源を見る必要もある。
蛇口や浄水器に問題がある場合も多いが。(つまり自分の脳)


どんな浄水気を持っていても、もともとの水が偏見にみちた(普遍的なものから、派生するにしたがい、純粋な物が汚れることをいう、ここでは、通った人間のフィルターをとおり、色付けされた、の意)


わたしたちは、いつでも源の水を飲めるのだ。