時事問題やスピリチュアル業界に関するひとりごと 

10年以上スピリチュアルや自己啓発系 心理学系セミナーやコースを受け、気づいたこと。

クライアントは暗示にかかりやすい

自分はダメな奴で、誰かに頼らないと生きていけない、と思っていた時に出会うのは、
頼らせてくれる人物かもしれない。


過去の私は、ネットや本でいろんな情報を集めては試し、時に はまり、多大な時間とお金を費やした。その時の思考は、誰についていけばいいのか、だ。
だれが本当のことを言っているのさえわかれば、その人や教えについていけばいいのだから、楽なのだ。 言い換えれば、ルールにしたがえばよい、のだ。


この時点で、かなり暗示にかかりやすくなっていることは、客観的にみれば お判りと思う。
また、学校教育が、カルトと変わらないと指摘されていることもうなづける。自分の思考は必要とされない。常に、権力者やloud speakerについていけばいいのだ。
従いたい人と従わせたい人、というのは、まさに同じだ。表裏一体。


日本はもともと中央集権国家であるし、お上の言うことを聞く、というのは、得意であろう。 この構図自体になんら問題はない。 問題が起きるのは、、、、、、


話を戻して。


ですので、自分がクライアントとして誰かのカウンセリングなり、門をたたくときは、
自分が暗示にかかりやすくなっているということは、知っていおいて損はない。
そうすれば、どこか客観的な自分ももっていられるし、なにか間違った方向に(ここで間違うとは、本来自分が求めていない、の意)他人、特に家族の声が耳に入るだろう。


ここで、私の思い込みが外れた流派を紹介したい、が団体名をだすと、宣伝ぽくなり、私の意とそれるので、そこは割愛させていただく。また、このエッセンスが含まれる団体や個人ならどれでも安心であろう。



われわれの倫理として含まれるものは、カウンセラーの”クライアントの独立を促す”という非の打ちどころのない、完全な立場である。これは、一般的な意味での独立もであるし、とりわけ、カウンセラーからの独立だ。このように、治療プランのどこかで、クライアントが以下のことを確信するような段階をとらなければならない。それは、はじめは、カウンセラー主導で、はじまったセラピー(カウンセリング、自己啓発、なんでも)でも、クライアント自身が変化するの過程に十分参加し、クライアントこそが資源の源であるということ。(続く)


要するに、:初めは、支えられいたとしても、(サポートや援助)自分で独立できるのだということを確信させること。


ここで、言葉の定義が必要だろう。 独立とはなにか?だ。 自主独立、と表現する人もいる。 話はそれるが、この名前つけ、というのは永遠のテーマだ。
短く簡潔にのべれると、エレガントであるが、それでは人々が独自に解釈し、独自の文脈で使うから、誤解が生じる。抽象的な言葉が文脈なく使われると、とんでもない言葉狩りになったり誤解を生むのは、情報化社会において日茶飯事だ。



話を戻そう。


独立とは、自分をどう扱うか、から始まる。 先頭に述べた、自分がだめなやつ、
これはとても独立できているとはいえない。
かといって、一人でなんでも、全部できる、自給自足的に解釈する人もいて、そこをつついてこられるが、これがまさに、文脈なく言葉を使うことのどうしても起こってしまう側面だろう。


まとめ
やはりだれかに頼りたくなるとき、暗示にかかりやすいということは、知っておいたほうがよい。これは、だれかに頼られたときも同じだ。
しかし、人間は、この頼り頼られ、支配、服従の関係のゲームを楽しんでいる側面もある。あまり、これはいい、これはダメという情報だけいれると、今度は失敗をおそれ、(意図があれば失敗は単なる経験にすぎないのだが)経験自体をしなくなってしまう、というのもある。石橋をたたいておわる、のような。
まあ、全て〇だから、いいのだけど、ひとつだけ自分で判断できる材料がある。
自分に聞く、という方法。つづく