時事問題やスピリチュアル業界に関するひとりごと 

10年以上スピリチュアルや自己啓発系 心理学系セミナーやコースを受け、気づいたこと。

やっと息が吸えるようになったこと

いつもどこか急かされて


浅い呼吸をしていた


速く、正確に、やり遂げる、


目標(ごーる)があって、それに向かっていく。


着いた!とおもったら、またすぐ、新しいゴールを見つけて、ダッシュ!


それは、一直線のゴールではなく、ハツカネズミの輪っかのように


止まることのない道


浅い呼吸ならまだしも、呼吸をとめていることも。


文字通り、息を潜める。



ここへきて、自然に深く息を吸っている。


いや、深いというのは違うかも。


深いというのも、ある種違和感がある。


まるでワークやエクササイズで、”リラックスしましょう”というときのように。


呼吸は自然。


宇宙のリズムと合う感じ。


ワークでやる呼吸はどこか肩に力がはいるのだ。


取り組む、ことに、身体のアンカーがある。


ワークでやったことは、日常に溶け込ませなければいけない


それは、ワークそのものより大切なことで、自分の中に統合されていく。


探していたものは、すでに持っていた、とは、スピ界ではよくいわれることだが、


まったくそのとおりだ。


こんな日がくるなんて、想像だにできなかった。


こんな生き方ができるなんて、夢にもおもわなかった。


ただただ、無理だよって洗脳をうけてただけ。


それを”真”としていただけなのだ。


ただただ、ドラマをみたかったのかもしれない。


同じドラマをもう見ることはない、と思っても、


後悔している、とは違う。


ドラマのなかで酸いも甘いも味わって、またエントロピー的に増えていったちらばった


ものたちを、ネゲントロピー的に還元していくことが、


今、とてつもなくおもしろい作業になっている。


ゴールはない。それで稼げる? 知る由もない。


ただただ楽しく、ぜいたくな時間の使い方をしている。


ぜいたくな、という形容詞がでるということは、何かと比較しているのだ。


基準があって、ぜいたく、とぜいたくでないものにわけている。


過去に経験してきたものが、今の生活を極上のものにしているのはまちがいない。


考えてみたら子供というのはこういう時間の使い方をしている。


将来の不安もなく、今やっていることに没頭する。


そこに、ぜいたくだのなんだのおしゃべりする人はいない。


しかし、いつごろからか、その世界から引き出される、無理矢理に。


ごはんよー


はやくしなさいー


学校よー


あさよー


もういくわよー


まだなのー


こんな残酷なことをされて人は生きているんだ。


自分の世界から引き出されるときの苦しい感情は今もおこる。


もっと本をよみたい、 でもご飯の支度


もっと音楽をかなでていたい、 あーお迎えに


そんな具合で、どこか、楽しい時間も奪われる、時間に人間が合わせる感じ。


いやいや、それが人間の生活でしょ。


そうおもってたんだけど、 これって奴隷だよね?


野生の動物以下だ。


眠い朝におこされ、半分寝ている体に鞭打ってお弁当をつくるって、


奴隷じゃなくて、なんなの?


いまは、積極的な妥協として、おこなっているからいいのだけど、


当たり前とおもっていることは、まったく当たり前でない。


もっとも、これはアメリカからの独立がないとむずかしいのかも。


さらに、これを可能にするには、日本人の精神的自立が肝なんだけど。


とまあ、こういったことも、完璧な宇宙の法則でおきていて。


そこにいるわたしたちももれなく完璧で。


完璧であることに、気づいている人と、いない人、それだけだと思う。


いや、完璧であると気づいているときと、いないとき、のほうがあってるかな。